ANA国内線【PR】

一日一ケロ

年一回の一言批評 2011

昨年以前版

SMAP→
露出増加が危機感の表れなのは周知の事実だろうが、今や外見、歌や演技のパフォーマンス、トーク、タレント性、全てがイタいレベル。まさに合掌する他ない。老化する日本の象徴。「同世代に勇気を与える」のはアイドルの役割の一つだが、彼らを見ると「あーあ、俺も年取ったな」と否応なく思わされて逆効果。若いやつらが出てこないとか元気がないとか言う前に、先達がまず地位にしがみつくことをやめて物理的に脇にどくことが重要なんだな、などと実社会に思いをはせて暗い気持ちになる。早く第二の人生に切り替えた上、各自の適性のある分野で芸を磨いて存在感を発揮し、「SMAPである」という以外の本源的価値を身に付けて同世代に勇気を与えてほしい。
 
嵐→
相変わらず楽曲は良く、踊りにも華がある。よくよく見ると王子ぶってる松潤や翔君って結構ブサイクだな、などといろいろ感想はあってもトップに君臨している者の輝きは全てを凌駕する。かつてSMAPもそうだった。ただし嵐の面々とて既にアラサー。5年後にはSMAP同様の状態になりうるという現実を忘れてはならない。
 
TOKIO→
ニワトリをしめたような長瀬の発声方法に疑問はあるが、曲(「見上げた流星」)は実は結構良い。曲によってツインボーカルを務める山口の男性アイドルロックバンド風の発声方法には更に疑問があるが、今は亡き男闘呼組を偲ばせるという点で一部には味わい深かろう。年を取っても渋味を増すタイプの容貌の長瀬には味のある役者になっていくという道が開けているが、他のメンバーに関してはSMAPの高齢化問題も他人事ではない。
 
東方神起→
デカくてガタイもよくて歌もうまくてきちんと踊れて、東洋人ならではの薄い顔のかっこよさもある。喋れば日本語は片言だからどんなに実際は腹黒かったとしてもシャイないい奴に見える。二名のユニットというのは韓流では稀少であり、十っぱひとからげ感、「また韓流か」感の漂う他のユニットに比べて別格感が出ている。
 
ゆず→
「栄光の架け橋」は年に一回くらいは聞く価値のある曲だ。年月を経ても音も作品世界も変わらないため飽きはあるが、本人達が飽きないのであればいつまでだってやればいいと思う。欲を言えばポルノグラフィティの地味な方が長谷川京子をゲットしたようなエピソードが岩沢君にもほしいところ。心配することはない。ギターをアテレコしてるだけのポルノの片割れよりは歌が激ウマの岩沢君の方がアーティストとしては百倍価値がある。
 
Perfume→
かしゆか&のっちのむっちり美脚を押しすぎではないか。彼女たちさえも中田の世界観を表現する部品であり人形にすぎない、という観点からはあのむっちり美脚押しはやや過剰な気がする。今年出た一連の楽曲はアルバムで通して聞くとやはり良い。音の面では心配はないが、20代の彼女たちの(むっちりも含めた)成熟そして劣化が世界観にマッチしなくなる日はやがて来るのか。
 
AKB48→
年末年始のあらゆる特番にただただ無意味に平均3名ずつ存在していた。学芸会的に楽しむJ-POPの演者としてはともかく、喋りとキャラが求められるタレントとして展開するのは相当無理がある。実力があるからのキャスティングではなく「売れてるから」キャスティング、というのはテレビの宿命だが、回す側の芸人が「社長の姪っこだから仕方ないかぁ」という感じで仕方なく彼女達をいじっているのを全ての番組で見るのもいたたまれない。「フライングゲット」や「風が吹いている」を聴いてつくづく思うが、もともと表現したいものが何もなく空っぽで、だからこそ何かを内面から絞り出すこともできなければその必要もなく、丁度よく田舎者に刺さる、表層だけさらっとすくった歌詞が書ける。あとは耳障りのいいメロディーに乗せて一丁上がり。それが秋元康の真骨頂だと思う。小室もそうだが、演者が際立って素晴らしかった場合(美空ひばり、安室ちゃん他)に、その凡庸すぎる商品が、凡庸であるがゆえに演者の邪魔をせずに大変なモノに化ける場合もあるわけだが、凡庸であることそのものを意図的に商品化したAKBの場合はそうはなるまい。
 
EXILE→
真ん中の二名のカラオケ歌唱担当のナルっぷりが増したこと、周辺で踊るゴボウ達の踊る速度がやけに増したこと。変化といえばそれくらいか。ゴボウ達は保健体育の授業で「精子くん」としてアニメで見せられそうな頼もしい運動量。2011年のアーティストの曲のほとんどに言えることだが、曲の内容で被災地を元気づける・勇気づけることは考えなくてよい。純粋に今まで通りの曲作りとパフォーマンスをして人々を楽しませるのが楽士(がくし)の務め。歌詞で元気づけようとする曲の大半は浅薄で自己満足的。EXILEから、陽はまた昇るぞ!と言われてしゃかりきに踊られてもなあ、というのは正直ある。
 
浜崎あゆみ→
全く存在感がなかった。それでも芸能界には何の支障も出なかった。それが彼女の現状だと思う。無名の外人とくっついて悦に入るあたりは同郷の松田聖子をほうふつとさせる。「心の奥で深く結びついた者同士の共闘」とでもいうべき彼女の今までの世界観と、薄っぺらそうな外人との電撃結婚のエピソードとは乖離がありすぎないか。下降する一方の人気が底を打つとしたらシングルマザーになった時であろうか。
 
倖田來未→
結婚・出産と新たな展開が出たのはめでたいことだが、これから数年はこの女のこってりしたノロケ話を聞かされるのか、とうんざりした気分にもなる。
 
絢香→
ご法度を犯した禊(みそぎ)を終えての復活は既定路線。上手いとは感じるのだがモメンタムが大きくハゲ落ちたのは否めない。ただでさえ震災の影響で自己・他人肯定型の曲が蔓延しているため、昔からそればっかり歌ってきた彼女が出てくる頃には相当にお腹一杯。メイン料理の登場というよりは、盛り沢山のデザートが出てきたような過剰な満腹感が発生する。
 
少女時代→
太腿から脂肪吸引しているからショーパンしか履けない、などという都市伝説が蔓延するほど一般社会にも浸透。最近口パクが多かったが紅白では生歌で、やはりパフォーマンスの質は群を抜いて高い。民主主義社会の喜び組の最高峰。ジョンウンの元に派遣して南北融和を担い、いずれは北の選抜メンバー(間違いなく歌と踊りの完璧な超絶美女集団、かつ媚び感も少女時代以上)と共に合同ユニットを組んで平和の象徴として活躍してほしい。
 
KARA→
日本人の幼児趣味を上手く捉えた。若い子が多い地方のキャバクラのような吹っ切れた盛り上げ感は大きな取り柄。お尻に魅力を感じるのはストレートでもゲイでも同じなので、ケツダンスはキャバ嬢にもオネエ嬢にも刺さることうけあい。場末のスナックから渋谷のカラオケボックスまで、今日もどこかで誰かがケツをぶんぶん回していることだろう。企画の勝利が先行した上で、存在が勝手に膨れ上がっていった好例。
 
猪苗代湖ズ→
I love you 福島を連呼。趣旨に批判するべき点はないがもう少しましな曲は作れなかったのか。アーティストであるからには優れた作品を生み出すことがまず前提で、被災地に向けたものだからといって三流のものであっていいということにはなるまい。箭内道彦がサンボマスターのヴォーカルの横で歌詞をずっと口ずさんでいるのも絵ヅラ的にどうかと思う。「ストレートでいいんじゃない?逆に。」みたいなことをきっと誰かが言ったんだろうな。
 
福山雅治→
ゼクシィのCM曲「家族になろうよ」。結婚もしてないのにこんな曲を書くな、とは言うまい。自分が体験してもいないことを感性で表現できる優れたアーティストは確かに存在するからだ。しかし彼のこの曲の歌詞にあるような平凡な家族観、陳腐なお爺ちゃんお婆ちゃん観、恥ずかしげもなく羅列する陳腐な表現には辟易する。桑田・宇多田・桜井・草野が「普通が一番だよ」と歌って(そもそも優れたアーテイストはそんなことをベタに歌ったりしない)陳腐になることはまずないが、福山の言葉や世界観は悶絶するほどにありきたりで、歌い手としてはともかく、曲の創造者としての才能は「トイレ」の植村花菜といい勝負。やはりここらが、「かっこよくておもしろい俺、福山」としてヌルく肯定されて生きてきた男の作品世界の限界だろうか。
 
Aiko→
苦しい。何もかもが幼稚園児コスプレをしたコントのように見えてしまう。思い切って、(彼女の今までの強みでもあった)幼稚園のプレイルーム感というか、むやみとウロウロするステージワークを捨てて、普通に歌ってみるというのはどうだろうか。
 
いきものがかり→
残り二名の垢ぬけもここらで頭打ちで、さてどこに行こうか、と言う感じではないか。歌もうまく曲も良いがヴォーカルが若干冷めているように見えるのは気のせいではないだろう。何となくここまで来てしまったという雰囲気が抜けない。
 
西野カナ→
重い歌詞が「ギャル演歌」として揶揄されるが全体としては好印象。健康で働きものの農家の嫁さん的な魅力というか、生命力に溢れ、無駄な策を弄(ろう)さないのは立派だ。子供は最低3名産んでほしい。
 
倉木麻衣→
そういう意味では、「策を弄しすぎ」(足し算しすぎ、いじりすぎ)に見える。かといって無表情で大人しい彼女を素のままで出しても画面栄えも座持ちもしないわけで、ZARDの坂井泉水形式を捨てた以上はこれも仕方なしか。
 
NYC、Hey Say Jump、Kiss My Ft2→
いくら何でも、このレベルの品質、才能のものが将来天下を取るなどということがあるのだろうか。嵐がそうだったじゃないか、と言われればそれまでだが。ジャニーズが本当の意味での(世界に通用する)芸能エリート養成虎の穴となる可能性はやはり限りなくゼロに近い。
 
AAA→
男女混合の多人数ユニットというのはもしかしたら新しい方向性としてアリなのかもしれない。しかしその新時代を切り拓く存在とは到底思えない。「このユニットのこのパフォーマンスを見て感想を述べよ」と言われても何も思いつかない。そんなユニット。
 
木村カエラ→
新・唄のお姉さん。童謡に特化。ロックっぽい曲調などで「教祖」となる道を潔く捨てた(推測)この展開は見事。私生活もさっぱりと充実(推測)しているので、風貌の似通う内田恭子の「ぐーたんぬーぼ」の後釜にだってなれる。しかし相変わらずABメロとサビとのギャップがひどすぎる。別個のものとして作って、いい加減にがっちゃんこしているのがよくわかる。確かにこのご時世、A・Bメロなんていらないもんな。
# by Starryeyes | 2012-01-13 12:42 | 音楽

台風に閉じ込められつつ

***
白金「酉玉」本店。男同士はおろかデート利用、はたまた異性の友達とのサシ飲みまで幅広く対応できる焼き鳥屋。希少部位満載のメニュー、ほどよく清潔な店内と渋い立地。唯一の難点は味が塩辛いこと。しかしパンチなき店は淘汰される運命のここ東京では塩も白い魔法の粉も強めに振るしかない、という事情は理解できる。

***
白金「アトリエ・ド・アイ」。山の手系ビストロ。薄暗い店内、申し分のない接客、ちゃんと美味しくて彩りもあるフラメシ。テーブルが喫煙席のみとなるのはちといただけないが、ズバリ、やれる店、かもしれない。

***
代官山「takemoto」。ちゃんと美味しい。接客もいい。立地もいいし内装も和食屋にしてはこじゃれている。ただ当店に限らず和食屋永遠の課題はエロスのある雰囲気をどうやって充満させるか。京都ならばともかく、東京の和食屋では、なんかこう、むらむら、むわっ、という感じにならない。だからこそ客層は富裕な夫婦、富裕な母娘連れ、歳の離れたカップル、などになってしまい、それが余計に空間を澄ませてしまうという悪循環(好循環)。イタリア人の給仕を雇うなり、今晩僕たちやっちゃうかもよ風のカップルを優遇するなり、何らかの解決策が求められる。

***
日比谷のペニンシュラ。昨今の効率経営の流れは踏襲しつつも全館ホテルで空間が占められているのは新しどころではここだけか。レセプションがせせこましいことの他、目立った難点としては上の方にあるバー「ピーター」の朝食との二毛作。モダンアート風の内装が全く朝食向きではなく、日比谷公園の眺めがさわやかなのは救いだが、ビュッフェの内容も今ひとつ。帝国ホテルに行けばいいという割り切りも可能といえば可能。買い物等には至便であり公園の借景も含め立地は(帝国ホテルがあることでも明らかな通り)完璧。

***
日本橋のマンダリンオリエンタル。ペニンシュラ、シャングリラ、リッツと合わせた四天王の中では一番飽きが来ないホテル。東側の眺めは邪魔をするものがなく、最も星の多いホテルとしてダイニングも充実。精進料理のような「センス」の中華料理には首をかしげる皿もあるものの、週末の飲茶食べ放題も面白いし、マンゴープリンは大枚はたいて食べる価値あり。古くて新しい街として、まだまだこれから再生の余地のある日本橋への進出にも勇気と先見の明を感じる。

***
丸の内のシャングリラ。部屋は文句なしに豪勢。アメニティーがロクシタンなのはやや驚きに欠ける。交通は至便と見せかけて実は地味に八重洲側なので結構不便。地下道を通って歩いて丸の内サイドに出る頃には非日常感が一気に薄れて興ざめである。ダイニングは貧弱。またレセプションの後ろのバー&カフェスペースが、朝も葉巻の香りをさせているのは勘弁してほしい。ここもバブル後の標準である効率経営が徹底しており、飲食店のポートフォリオやジム等の規模も適正。それだけにややさみしい気分にもなる。もはや格下となったウェスティンやグランドハイアットのような規模感、バブル感のあるホテルはもう東京にはできないのか。

***
中目黒「ジャンカデリック」。知る人ぞ知るテックスメックス系の雄。赤坂と中目黒の二店舗あり本尊の中目黒は商店街のずっと奥にある。大体いつも混んでいるので注意。良い意味でのアメリカンテイストが好きな人には刺さる。

***
代官山「アシエンダデルシエロ」。遅くまでやってる大箱の天空メキシカン。代官山にこんな店あったのか、という素直な驚きを来た客に提供する。久々に学生時代のファミレスでダベる感じを味わいつつ一定のスタイリッシュさも確保したい、というようなニーズがある場合にうってつけ。味とかはどうでもよく空間として使い手あり。

http://www.faust-ag.jp/sense/sense/sense116.php

***
恵比寿「こづち」。食堂。店の規模に比してのスタッフの多さでもわかる通り確固たる厚みの客層を持つ定食屋さん。このような良質の町の定食屋さんの場合、2−3人でやっていると、いつかなくなってしまうのではないかと心配になるが、これだけの陣容があれば心配はあるまい。味がすごく美味しいかどうかはあまり問題ではなく、存在自体が良心的な店。

***
丸の内「モリタ屋」。京都の町中にある店の東京出店。すき焼き。テナントとして地方の名店を招聘した場合にありがちなことだが、店側が持ち込む内装や雰囲気と、コンプレックス(この場合は丸ビル)の打ち出したいものとが中途半端に融合して中途半端な空間となる。ことほどさように、箱の中に入った店は(客を選びにくいという点からも)空間作りには不利であり名店は必然的に少なくなる。ただそんな面倒なことを考えなければ京都風の美味しいすき焼きを丸ビルで食べられる、わーい、ということで良いだろう。見逃せないのはサイドディッシュの「半兵衛麩」の生麩の揚げ物であり、そんなところにもオーセンティックさは感じさせる。
# by starryeyes | 2011-09-21 21:04 | 美食・飽食

某月某日

某月某日。大幅に年上のバツ2コブ2の男と付き合っている女性。「よくよくつきつめて考えると何が問題なのかわからなくなるの」。それは確かにごもっとも。相手が大幅に年上で問題のあることと言えば彼女を残して本人が早く死ぬことに尽きてしまうわけで、後はせいぜい親が悲しむとか心配するとか。他人であれば尚更、どんなことを述べても「社会の常識」を押し付ける人間の発言になってしまい感情の罠にハマっている相手には響かない。いや多少は響いたとしても相手の行動を変えるだけのインパクトは与えられない。

だったらば、好きで、幸せならいいんじゃない?と言うことになるはずなのだが何かが自分の中で釈然としないのは、相手の男の了見に疑問があるからだ。そこに未成熟さ、品性の卑しさ、見苦しい妄執を見るからだ。自分の中での何かのセンサーがどうしても反応してしまう。

大概の場合、この手の男はしつこく迫って相手を好きにさせて洗脳してしまえば勝ち、ということを本能的に熟知しており、筋も通さないし大した責任感もない。「結婚しようと毎日言われた/言われる」、と彼女は言う。だが彼の行動としてそれは合理的。自分のような「火中の栗」を相手の女性が拾ってくれて、結婚ということになるのならばそれは望外の幸運だし、相手が受け入れてくれなくても本気度みたいなものは示せる。どっちに転んでも悪くないのだ。

いろんな角度から彼についてネガティブに思うように仕向けて見る。しかし彼女の反応の一つ一つが、彼のことや現状を肯定する材料を探し理屈を探すという方向に向かう。感情は理に勝る。特に女性は「盲目」という偉大な資質を神様から男性より多くビルトインされている。更に日本では女性がいつまでも無垢、無知であることを奨励する社会構造ができている。男性のせいなのか女性のせいなのかはわからないがとにかくそうなっている。

徒労に終わるとわかりきっていた作業を案の定徒労の中で終える。表面上だけでも温かく包みこんで自分の刺さりに専念する、というのは自分の主義じゃないのでやや突き放した発言をする。すると今度は「見捨てないで」と来る。自分でも本能的にズルズルと「大切な何か」を失う危険性を察知しているのかもしれない。

一つ言えること。洗脳された相手の洗脳を解くには長い時間、相当な忍耐と労力を要する。しかも大抵の場合洗脳が解けるには新たな別の洗脳が必要。教祖の後釜に別の教祖が入るだけのことなのだ。教祖になる力が弱い男の場合は、そもそもこの作業に携わる適性がない。
# by starryeyes | 2011-06-03 08:01 | 交際・交遊

< 前のページ

次のページ >